宮城県石巻市の大川小学校を覚えておられますか?
東日本大震災の際、避難する決定が遅れた(*1)ため児童と教職員84名が
犠牲となった小学校です。
*1)教職員もほとんどが犠牲になったため、なぜ避難する決定が遅れたのか、
詳細がわかっていません。犠牲児童の保護者達が“人災”だとして裁判を
おこしていますが、関係者(大川小の教職員)がほとんど犠牲になったため
裁判でも詳細を明らかにするのは難しいでしょう。
東日本大震災でばく大な被害をこうむった東北3県の中で、多数の児童と教職員が
犠牲となった唯一の小学校です。
被災地の多くの被災建造物がどんどん解体され続けており、ニュースで大きく
取り上げられた物でさえ保存か解体かでもめていると聞きます。大川小学校も
例外でなく、被災校舎をどうするか決まっておらず、今後の話し合いで決めるそうです。
地元の大川地区復興協議会は
案1:校舎の主要部分を残す
案2:一部分のみを残す
案3:解体し、撤去する
の3案を提示しています。
別に石巻市と大川地区復興協議会は共同で
別案:一帯を追悼のための公園にして、津波が到達した高さまで盛り土をして
慰霊碑を建てる
も出しているようです。
関係者によく考えてほしいことがあります。
被災建造物を残すべきか解体すべきかの判断については非常にいい例があります。
原子爆弾を投下された広島市と長崎市の被爆建造物に対する対応です。
広島は原爆の遺構として残したのに対し、長崎はほとんどすべてを解体してしまい
原爆のつめ跡が残っていません。その結果どうなっているでしょうか?
多くの人たちは、原爆の被爆で頭に浮かんだり、被爆地を訪れたりするのは
まず広島であり、広島の遺構なのです。長崎は二の次なのです。如何に遺構が
重要かをものがたっています。
長崎で被爆した被爆者の一人として長崎の状況は非常に残念でなりません。
大川小学校の被災校舎は津波に対する非常にいい教訓なんです。
大川小学校を現状のまま東日本大震災の遺構として残して
原爆被爆における広島市のような存在になってほしいと切に願っています。